人を好きになる要素についての考察

2019318日 

 

人を好きになる要素とはなんだろうかと考えてみた。

 

そもそも「その人」とは何で表すのだろうか?

考え方、人となり。それはどうやって知ったらいいのだろうか?

その人が話す言葉?他人への態度?自分への態度?作品?文章?仕草?服装?文字?好きな言葉?習慣?

一体、どれがその人を最も表すものなのだろうか?

 

 

先日、男性と食事をした。その後、しばらく観察してみた。一体、この人はどんな人なのだろうか。そして、自分の感情を観察してみようと試みた。

そして、上記のようなことを考え、悶々としていた。

そうして、私には話し言葉でその人を判断するスキルがないことに気づく。甘美な言葉は自分を気持ちよくしてくれるが、果たして私のことを理解してくれているのだろうか?理解できるのだろうか?私は理解できるのだろうか?何か見逃していないだろうか?

 

 

そうして観察からしばらく経って、冷や水を浴びせられてまた帰ってきた。この世界に。

 

 

芸術とはその人の本質を表すものだ。だから今後、男性との食事は作文持参でお願いしたい。機会があれば、だが。

 

 

最近、どうやら世間は「むき出しの自分」では生きていないらしいということに気づいた。そして、なぜ自分はこんなにもむき出しなのか。

むき出しているから恥ずかしく、怪我してばかりいるのかもしれない。そうして、ズル賢い人に搾取され利用されますます露出していくのだ。そういうことを痛感したここ数週間であった。

 

 

 

先日、友達とナビアプリを駆使して、ワタリウム美術館TADANOBU ASANO 3634展」をみてきた。

私は氏に大変な誤解があったことにすぐ気づいた。

冒頭、「モンゴルでの撮影時、言葉が通じず、自分の演技もさせてもらえずフラストレーションから、こもって絵を書くようになった」とあった。

他に続く言葉を忘れてしまったが、その経験から世界の見え方や考え方がものすごく変わったのだなあと、みていて思った。

そして、その感覚は突然やってきて、人をさらに深いところへ連れって行ってくれるのだなあ、それを経験できることや理解できることは、素晴らしいことだなあと思ったのだ。

その中で、別れや出会いがあるのだなと、やっと理解したのだった。

 

人は突然変化する。それは本人しかわからない。どれだけ重要なことかも。そう感じる展覧会だった。

3月いっぱいやっているのでぜひ。

 

 

やはり、芸術はその人を理解するのに一番適している、と思ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結婚と複雑性について

2019年3月8

 

前回、沈潜しようかなと書いたが、したくても出来なくて早急に沈潜必須!という心境だったと気づいた。

音楽はとても気持ちのいいところへ連れて行ってくれるが、魂の紐が切れたみたいにどこまでも飛んでいってしまうのでちょっと怖いところもある。

今朝、ああこれってとんでも無いところにいるなあとトイレットペーパーをちぎりながら思った。やべえやつだ、と。

 

 

 

 

こんな記事を読んだ。

https://gigazine.net/news/20160816-creative-people-brain/

 

 

複雑性、相反する要素を持つ二面性。ということが、興味深いと思った。そして意識の底に残った。

 

 

好きな芸能人やアーティストと最終的に結婚したいか?という自問自答について。(そっとしておいてほしい)うーん、したく無いかも、と思い、この気持ちはなんなんだろうかからの考察。

色々考えたけど、人に見せれる内容ではなかったため割愛する。

しかし、この”結婚”という概念に世間との乖離があるということに気づいた。みんなが飛行機を見て「飛行機」というところを、私は爆撃機を見て「飛行機」といっているのではないか。

結婚はクリーンでないとしてはいけないこと、もしくは結婚はクリーンへの道のり、のように考えていたのだと思い至った。

自分の中の汚い部分がなくなる恐怖を、”結婚は怖いもの”という風に変換しているのでは無いか。もしくは、汚い部分を無くせない恐怖を。

また、相手の創作するものから”複雑性”がなくなるのでは無いか?もっと面白いものを見ているには誰のものにもなってほしく無い。自由でいて欲しい、という暗黒な感情が渦巻いていたことも発覚した。

 

上記の記事が引き金になった。自分の複雑性がなくなり、陽に偏ること、汚いものを綺麗だと思う感性がなくなることに恐怖しているのだ。

(記事には”調和”と書かれている。辞書を引くと釣り合いが取れてまとまっていることと書かれている。調和への反発)

または、大人になれない・物分かりの良い人間になれないことへの恐怖。

 

身も心も思考すらも”同期”させることが結婚だと思っていたみたいだ。

 

この概念がいつ私の中で作られたのか、どうしてこうなったのか、興味がある。

 

 

 

 

 

 

生きていることが恥ずかしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沈潜(ちんせん)

2019年3月6日 

 

自分を解放してみたら、以外にも解放されすぎてびっくりしている。

そしてどれだけ普通というものになろうとしていたのかも。

 

わにとかげぎす」の主人公が32歳で世界に飛び込んでいくのをみてびっくりしてる。暗号みたいだ。

 

一体何が正解だと思う?

 

仕事から帰ってきて、暗いキッチンでHIPHOP聞いてる喜び。リリックの素晴らしさ。

ネットサーフィンで拾った言葉の美しさ。意識が言葉になっていく喜び。

 

 

沈潜(ちんせん)とは、自己研鑽すること、自分を磨くこと。素晴らしく想像を掻き立てる記号としての言葉だと思う。

私は、意識の海の底で静かに自己を定着させる、ゆっくり自己を探すというイメージを持った。自己がシーラカンスになるイメージだ。

ちなみに研鑽とは、学問などを深く究めること、研究すること、らしい。言葉は使われたシチュエーションで大きくイメージを変えるものだと思った。

 

 

こんなにも言葉が好きだったなんて。

 

そのことに気づいてから、今の生活が嫌になった。きたくない服きて、ゾンビみたいに生きる。時間は有限だ。魂は歳をとらない。肉体の問題だ。それは、祖父をみていて思う。目の奥が、固く光っている。ゴッホの自画像もそうだ。目の奥の芯が固く光っている。

 

 

何をしよう。今は疲れ果てた。疲れたから、そっとしておいてほしい。

しばらく、沈潜でもしようかな。そこから何か生まれるといいな。

 

 

 

 

 

 

 

行き場のない気持ちは夜を行く

2019年3月3日  

 

昨日は最高の夜だった。友人と武道館へオードリーのANNライブを観に行った。笑いすぎて肺が痛かった。ラジオの向こう側と、こちら側のたくさんの人々が観れた。とても感慨深い。

 

 

私の膀胱が限界を迎えていたこともあり、人混みを避けるように、竹橋駅を目指した。公園のトイレで無事用を済ませ、夜を歩く。首都高を見下ろす。ここが何処なのかわからなくなる景色だ。地元にいる既視感。余白がある風景。

とりあえず、東京駅を目指して歩いた。友人は夜の写真撮影に夢中だ。終末みたいな景色。お堀に反射する光、工事中のビル。冬の木の枝は葉っぱがなくて

写真的だよね、と友人は言った。観光旅行みたいな写真になっちゃった、とも言った。

とても写真を撮る喜びが伝わってきて、写真は撮る喜び・発見の喜びが伝わることがとても重要な要素に思った。そしてそれを写すことができるのが写真だ。

「今度夜景を撮るために深夜歩こうよ」と言われ、即答して、なんて素敵な計画なんだと思っていたら生暖かい夜風に吹かれた。この余白と少し重みのある空気は伝わるのだろうか。

 

そうしてようやく東京駅に着いて、よく行くハンバーガー屋へ行ってボソボソ話して、終電が迫っていたので別れた。マンゴーティーがすこく美味しかった。

 

 

 

一日明けて。心がざわついて何も考えられなくて、昼寝して掃除、午後9時をすぎてようやく着地してきた。

 

 

この2曲を見つけて、暗い部屋でずっと聞いてる。こんな気分なんだ。

https://www.youtube.com/watch?v=uynUxcbG120&list=RDuynUxcbG120&start_radio=1

 

https://www.youtube.com/watch?v=VSIQXRl7dUE&list=RDuynUxcbG120&index=2

 

 

憂鬱と生の喜び、空気感を言葉で表すラップってすごいな、と漠然と思うのだ。

 

 

 

 

また、現実感が戻ってきたら書きたい。夜へ行ってきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

絶望各種

2019228日 

 

「じゃあ、あなたは何ができるの?」という質問に対しての考察。

 

正直、痛いところを突かれた。怖くて考えないようにしてきたが、思い当たるものがないからだ。

何もできない。はっきり言おう、何一つまともにできない。劣等感と絶望各種。

 

 

 

しくしく夜道を歩いていると閃いた。

その「何もできない」とは、金の臭いがするな、と。

 

「私は、何かをして金を得ることが出来ない。」

 

金にならないことならたくさん出来る。芸術を理解すること(自信満々にいったものの・・・)映画を自分なりに解釈すること、小説を読んで感動すること、文章を書くこと、写真を撮ること。これって何か出来るにカウントしたらダメなの?

 

その判断は自分なんだろう。自分の偏りだったんだ。私は堂々と言いたい。(世間様には小さな声で・・)

社会に貢献していないと生きていてはダメだって何と無く思っていたけど、自分を喜ばせないと生きてる意味が無くなってしまう。自分がこのブログを書くために帰り道から悶々として、飯も食わず2時間も3時間もパソコンの前に座っている喜びは本物だろう。

 

 

 

即興的文章が排泄にならないために。冷静でありたい。

 

 

それでも絶望は顔を覗かせる。でも死にたいとは思わなくなった。自分が好きなことを何も出来ていないからだ。

(死にたいという言葉が便利すぎて。精神と時の部屋に行きたいくらいの感覚で使ってる)

 

あまり冷静ではないというか、頭回っていないし、絶望も追いかけてくるし。

それでも、ブログを書くことは楽しい。

 

 

 

 

 

実験2(雑記)

2019年2月23

 

「思考」しようと考え出してから、ブログを書いて人と何かを分かち合えたらと思いだしてから、そもそもの「言葉」というものにぶつかりました。

言葉が出てこない。考えを現す言葉が見つからない。適当に言葉を当てはめてみると、意味やニュアンスが全く変わってしまう。昨日まで使っていた言葉の意味がわからなくなる。理解していたつもりで、理解していなかったということが度々ある。そうすると世界に確かなものがないような気がして不安になる。

言葉とは、思考の”素”ではないか。人間は、言葉を使って思考を深め、進化してきたのではないか。では、と調べの森へ入ったのだった。

 

 

 

https://discourseguides.com/kotoba_merit/

 

あながち間違いでもなかった。

 

”語彙力をつけることによって新しい考え方や概念を持つことが出来る”とある。

 

なるほど。語彙力のなさに困っていたが、以前より思考停止状態が無くなってきたのか、言葉が湧いてきて思考らしき雲が映画のエンドロールみたいに流れてくることが増えた。それは、言葉と思考が繋がっている証しだろう。

 

 

こんな面白そうな本も見つけた。給与が入り次第、本屋へ急ぐとする。

https://www.asahipress.com/bookdetail_digital/9784255010038/

言葉とは何か。哲学と同じく、答えは出ないもののようだ。

 

 

簡単に書き出してみたが、もっと勉強しないとわからないことだらけだった。また何かまとまったら書きたいと思う。

 

 

 

森が深すぎて迷子になってしまったが、言葉と思考のつながりについて思うことがあったので書きたかった。

それは、「無意識」を言葉で説明できるようになると「意識」になる。意識的に自分の行動、考えを説明できるとそれはアイデンティティになる。

アイデンティティという核を持つと見るもの、伝えたいことが明確になる。

 

写真を撮るということを通じて実感したので、報告したかった。

 

書き出したら、思考が霧のようになってしまってまとまらなくなってしまった。失敗だ。

今の所、思考を練るのに1週間かかるということなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイデンティティ

2019220

 

頭のなかに言葉が溢れてくる。言葉が入道雲みたいに集まってくる。それが文章になる。これが「思考」なのか。

 

 

 

このところ自分探し、ならぬ、自己分析、にハマっている。

信憑性があるかわからないが、色々やってみたけど、どうやら私は社交性や主体性が尋常でなく低く、しかし自己主張力は超特異的に高い。一人を好み孤独への耐性がある。アーティストや芸術家、オタク、その様なものが向いているとのこと。

ほほう、と思う。そうでしたか、と。

 

ネットでは信憑性が怪しいと思い、「ストレングス・ファインダー2.0」を買った。

まだアセスメント(診断)はやっていないが、(休みの日にじっくりやる予定だ。)挿入を読んだ。

 

”「いばらの道」を選ぶな”で始まる文章は、とても興味深い。

簡単に言えば、なぜ才能を磨かないで、出来ないことを出来るようにする為に大切な時間を費やすのか。そしてそれが出来たとしても、月並みなのではないか。ということが、エビデンスとともに書かれていて、当たり前と言えば当たり前なんだけど、洗脳されていた思考力ゼロの私としては、目から鱗だった。

タイムマシンがあって、過去に一つだけ持っていけるとしたら、これを持っていく。

 

私の人生は、何を選ぶか、ではなく、何を捨てるか、だと思う。

可能性はいくらでもある。でも、多分、一つだけ捨てられないものを持っている。その検討はついてきた。

 

 

 

 

昨日、こんな記事を読んだ。

 

https://imaonline.jp/articles/archive/20190218caiti-borruso/#page-1

 

 

アイデンティティを探求するすべとして始めた写真と執筆を、いまでも続けている。”

 

この部分に興味を惹かれた。ほほう、と思った。

自己表現としてではなく、アイデンティティ探求するすべ・・・・ジーザス クライスト!!!!!!!!!!!!!!!!

 

日々、驚くことばかりだ。自己を知ろうとすると世界を知りたくなる。自己を知るために、細かなディテールが気になりだす。この言葉の意味は?この時代背景は?人間とは?

 

焦点が合い出した世界では、無知が怖い。0がわからないと、何一つ分からないからだ。

最近、19世紀とは1801年~1900年までを指すと知った。そして世界史を基準に写真史を紐解いていくと、時代背景がわかる。撮影者、その時代に生きていた人達の感覚を手繰り寄せるヒントになる。そしてその中でも変わらない、”感覚”を見つけた時、自分と同じものを見つけた時、本当に幸福だ。

 

 

ケイティ・ボルッソさんに関する記事の言葉を借りて、自己紹介をしてみたいと思う。

 

私は写真が好きです。それは、自分自身を深めてくれるからです。アイデンティティを知るすべだからです。アイデンティティを伝えるすべだからです。

写真を見てもらえれば、私がどんな人間かわかると思います。

 

 

 

 

 

違和感の正体がわかった。言葉を知らないとは、なんと苦しいことか。

ジーザス クライスト!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!