結婚と複雑性について

2019年3月8

 

前回、沈潜しようかなと書いたが、したくても出来なくて早急に沈潜必須!という心境だったと気づいた。

音楽はとても気持ちのいいところへ連れて行ってくれるが、魂の紐が切れたみたいにどこまでも飛んでいってしまうのでちょっと怖いところもある。

今朝、ああこれってとんでも無いところにいるなあとトイレットペーパーをちぎりながら思った。やべえやつだ、と。

 

 

 

 

こんな記事を読んだ。

https://gigazine.net/news/20160816-creative-people-brain/

 

 

複雑性、相反する要素を持つ二面性。ということが、興味深いと思った。そして意識の底に残った。

 

 

好きな芸能人やアーティストと最終的に結婚したいか?という自問自答について。(そっとしておいてほしい)うーん、したく無いかも、と思い、この気持ちはなんなんだろうかからの考察。

色々考えたけど、人に見せれる内容ではなかったため割愛する。

しかし、この”結婚”という概念に世間との乖離があるということに気づいた。みんなが飛行機を見て「飛行機」というところを、私は爆撃機を見て「飛行機」といっているのではないか。

結婚はクリーンでないとしてはいけないこと、もしくは結婚はクリーンへの道のり、のように考えていたのだと思い至った。

自分の中の汚い部分がなくなる恐怖を、”結婚は怖いもの”という風に変換しているのでは無いか。もしくは、汚い部分を無くせない恐怖を。

また、相手の創作するものから”複雑性”がなくなるのでは無いか?もっと面白いものを見ているには誰のものにもなってほしく無い。自由でいて欲しい、という暗黒な感情が渦巻いていたことも発覚した。

 

上記の記事が引き金になった。自分の複雑性がなくなり、陽に偏ること、汚いものを綺麗だと思う感性がなくなることに恐怖しているのだ。

(記事には”調和”と書かれている。辞書を引くと釣り合いが取れてまとまっていることと書かれている。調和への反発)

または、大人になれない・物分かりの良い人間になれないことへの恐怖。

 

身も心も思考すらも”同期”させることが結婚だと思っていたみたいだ。

 

この概念がいつ私の中で作られたのか、どうしてこうなったのか、興味がある。

 

 

 

 

 

 

生きていることが恥ずかしい。