写真とこころ
写真の何が好きなのだろうと自問自答してきて、写真を見たときのこころの動きに興味があることに気がついた。
スーザンソンタグを読んでいて、写真は撮影者の視点を通して世界を見ることでいかようにも世界を捉えることができる、と納得した。
装置としての写真。では、私はそのことをまとめて言葉にしていく必要がある。
好きな人たちに写真の面白さを伝えて、興味を持ってもらえることは私にとって至福なことだ。
形式張った”写真”から離れて、とても個人的な写真を見ることも至福だ。
そしてそこから感じることはとても大きい。
それは写真が、世界と直接的に関わっており、意識的だからだ。言葉を必要としないコニュニケーションは、人間とは何かということにつながるような気がする。
無意識層にある根源的な意識の共有になるのではないか。
先日、件の男性と話していて、私の意見はいつも堂々巡りで「君の目指すものはどれだけの距離があって、君は今、どの地点にいるのだ?」と聞かれて恥ずかしくなった。翌日も、どこにもいけない思考が苦しくて、何を変えれば一段上がれるのだろうかと考えていた。
たった一段でいいから登りたい、変わりたいと考えていた。
自分は、写真を撮るだけでなく哲学や言葉を織り交ぜて、鳥が巣を作るみたいに写真と向き合いたいと思った。
人生は自己実験だ。そうすれば、怖いものなどなくなるだろう。
私は台風だ。同じところでクルクルと回っている。この小さなうねりが巨大なハリケーンになるように、刺激を与え続けよう。
ハリケーンに意識があるとしたら、苦しいのかな、楽しいのかなと思って、また、クルクルしていた。