メモ2
たまには文章を作りたいと無性に思った。何も考えないで書いてみたいと思う。
今は、写真と経済と哲学を勉強している。どれも精神性ということで繋がっていると思う。
写真を紐解くには歴史が必要だし、歴史には経済が付き物だ。そこには人間が不可欠だし。
経済はまずお金とは何か?から始まった。お金の使い方を改めて考える。快楽的に使っている事を反省。より良い明日の未来のために使う事を知った。
村上龍「私は騙されないために経済を学んだ」読。個人の世界に対する考え方がまとめてあって読みやすい。一人の人間のパーソナルな視点を通すとより興味が持てる。
興味がある事ない事ひっくるめて学ぶことは楽しい。し、必要だ。
学ぶことは思考や視点を変えてくれる。
写真。写真とはなんぞや、は未だに謎ではあるが、視覚芸術だということがわかった。カメラという枠を通して、見ることを強化してくれる。なぜ見るのか。どうして興味を持ったのか。そこから思考が始まる。思考を深める装置なのだ。
どうして同じカメラでも撮影者の感情までも写してしまうのだろう。写真の粒子までも変わってしまうのは何故なのだろう。
本を真剣に読むようになって、いちいち辞書を引かないと読めないことに驚く。むしろ今までよく読んできたなと思う。
行動科学も大変参考になる。感情ではなく、習慣として動くこと。出来ない自己嫌悪に振り回されるのではなく、やりやすい行動を環境を考えること。習慣にしていくことが目標だ。
具体性と言う事を学んだ。ずっと自分は根性論だったと気づいた。
ずっとずっと有言”無”実行な人間だった。だから変えたい。とても変えたいのだ。どうか自分に勝てますように。
ある出勤前、あ、神様はいないな、と思った。
このところは良いことも悪いことも含めて、楽しんで生きている。
今日あった一番嬉しかったことは、マックでポテトを齧っている幼児に笑みを投げかけられたことだ。微笑み返すととても嬉しそうに笑ったので私は赤面しそうになった。
人に親切にしている事を思い出して瞑想せよとのワークをしていて、親切はされても親切はしていないと言うことに愕然とした。人に嫌われまいとしようとするがために、自分のことしか考えていなかった。
マックの幼児を見て、微笑むだけでも十分親切な行為だ、と思った。自ら心を開くことは親切の基本だと幼児に教わった。悔い改めたい。マジで。
ハプニングは人生最良の薬
うちのトイレが壊れた。修理業者に「本日はもう手の施しようがないです」と告げられ、絶望。どうやらマスが詰まっているらしい。トイレ兼風呂場が汚水で浸っているので、使用不可。とりあえず、街へ逃亡した。
マックで時間を潰していると、友人からメールがきた。無理やり会話にトイレの話をねじ込んでみた。笑いに昇華することが出来、心底ホッとする。閉店時間になり夜道を歩いていて、ふと母親に電話でもしてみようかと思い、近況を連絡。ホッとした。
これしきのことが笑いに出来なくて、どうするんだ。一人暮らしをして学んだことは、日々のハプニングは小話にするべきだ、と言うこと。いかに面白く出来るか。構成の大切さ、芸人の話のうまさに感嘆だ。またくよくよしちまったぜ。
家族、友人・・・縁について考えてみる。縁とはなぜ生じるのか。それを考えることは、どうして私は私なのだろうか?と言うことと同じようなことなので深く考えない。縁がある、それでいいじゃないか。
頭の中だけで生きているとハプニングが起きる。正月に銭湯で足をパックリ切ったり。そうして流れる血を見て生きていることを再確認した。精神だけで生きてはいない。この体を含めて私なのである。そしていつかこの体は無くなってしまう。
話を戻そう。トイレの修理代は、マスの老朽化と言うことで管理会社へ請求されることとなり、払うべき結構高額な料金は発生しなくなった。物事はどの角度で見るかだ。不幸中の幸いとでも言おうか。まあよかったじゃん、と思いつつ、線香を焚く。
この線香の煙は、一体どこまで届いただろう。
メモ
私の正体は、唯美主義者であった。もしくは芸術至上主義者。
”愛”だと思っていたものは”自我”である可能性がある。自我というトンネルがあり、その受け皿が愛を吸収したのかもしれない。
ずっと人から相手にされていない、認められていない、蔑まれていると思っていたけど、本当は自分自身が自分を相手にしていなかっただけ。だから、何をしても埋められない気持ちがあった。ずっとずっと待っていたものは、自分と自分の対話であり、大人になるということは、自分の”世話”を自分がすること。ずっと君や君に話したくて溜まっていた話は、1秒前の自分にしてあげたら良かったのだ。
世界線と愛について
以前、人を知るためには芸術が一番だ、と書いたが訂正したい。
芸術は私がもっとも愛するものだが、それが相手を判断する基準にはなり得ない、という結論に達した。芸術は芸術。愛は愛。シンプルに行こうぜ。
日々の何気ない一言や、眼差しが、その人の哲学をあらわしている。先を急ぎすぎる私は、それを見逃していた。だけだ。
救われようとする心は、人を見る目を濁らせる。受動的な心も、視野を狭くする。
あまりにも頭の中がいっぱいで、何も手につかなくて困っている。
マイク・ケイヒルの映画が好きだ。何が好きかといえば、”並行世界”について書かれているところだ。
あの時選ばなかった人生は間違いではなく、選ばなかった世界なだけだ。世界は終わったわけじゃない。違う路地に入っただけだって。
PUNPEEもリリックを通してよく言ってるよね。
シンプルに考えてみよう。
彼のことを考えている世界。芸術家になるための世界。2本のラインを通せば、そこを行ったりきたりすれば、物事はシンプルではないか。
じゃあ、今は芸術家ライン。そうすれば頭の中が楽になる。絡み合って見えなかったものが見えてきそうだ。
救われようとする心は、絡まった糸だ。自分でほぐすすべを知っていれば、必要なくなる。
解れた糸は視野を広めてくれる。愛を深めてくれる。
”ひと”を知らなかった私は、あまりにも楽に知ろうとしすぎていた。それは自分の中のトンネルがなくて不安で怖かったからだ。いつも試されているみたいで怖かった。
今はトンネルが飲み込んでくれる。トンネルの底から人と話をしている。その人のトンネルを知ろうと観察し、話す。質問する。そして自分のトンネルを観察する。
その繰り返しだ。
その行為はとても楽しい。それは芸術と同じくらい価値のあることだ。
これで楽しくなった
2019年4月23日
好きの要素について。
いつまでも残る声や、笑った口元がフラッシュバックしていけない。
過日、すごく落ち込んで自分とは何者であるのかと考えていた。
私はよく人をゾンビと揶揄するが、一体それになんの意味があるのか。あ、待てよ、ゾンビとは私のことではないか!!!と思ったのである。
そうして、よく考えてみると自分がゾンビである状態はとても自然で力が抜けていて、良いことだと思った。
どうして今まで自分は、自分だけは人間だと思っていたのか。その方がよほど不思議で、おかしなことのように思った。
だから、私はゾンビ。やっと自分というものを受け入れられた気がする。すごく楽になった。そして、ゾンビとかゾンビじゃないとかどうでもよくなった。
そんなに時間はないのだ。
数年まえにもスーザンソンタグ「写真論」を読んでいるはずなのに、何一つ覚えていないし、何も感じなかった。意味すら分かっていなかったんだと気がついた。
写真、写真、写真、写真…
表面的だった。今読んでみて、書いてあることがやっと分かってきた。
これは、「愛」による作用が大きいと思う。愛といっても、好きな男のことではない。
家族愛、友情、博愛… 人への興味と自分への興味だろう。愛には二種類あると読んだことがある。進行しながら感じる愛と、別れてから気づく愛。
私は絶対的に後者で、この作用は私の中に大きなトンネルを通したのだ。そして、自己を見つめる中で梯子をかけることに成功したのだ。
「私はロランス」という映画を見て、あのピンク色に塗ったブロックこそが愛だと悟った。そして、愛とは二人で作るものではなく、一人の人間の強さだと思った。
これも過日、愛とは「好き」という状態とは違う、と思った。好きは一方的だ。無遠慮だ。
愛とは私にとって一生わからないものだと思っていた。しかし、今、私は愛によって深く世界を理解することができてきている。
写真とこころ
写真の何が好きなのだろうと自問自答してきて、写真を見たときのこころの動きに興味があることに気がついた。
スーザンソンタグを読んでいて、写真は撮影者の視点を通して世界を見ることでいかようにも世界を捉えることができる、と納得した。
装置としての写真。では、私はそのことをまとめて言葉にしていく必要がある。
好きな人たちに写真の面白さを伝えて、興味を持ってもらえることは私にとって至福なことだ。
形式張った”写真”から離れて、とても個人的な写真を見ることも至福だ。
そしてそこから感じることはとても大きい。
それは写真が、世界と直接的に関わっており、意識的だからだ。言葉を必要としないコニュニケーションは、人間とは何かということにつながるような気がする。
無意識層にある根源的な意識の共有になるのではないか。
先日、件の男性と話していて、私の意見はいつも堂々巡りで「君の目指すものはどれだけの距離があって、君は今、どの地点にいるのだ?」と聞かれて恥ずかしくなった。翌日も、どこにもいけない思考が苦しくて、何を変えれば一段上がれるのだろうかと考えていた。
たった一段でいいから登りたい、変わりたいと考えていた。
自分は、写真を撮るだけでなく哲学や言葉を織り交ぜて、鳥が巣を作るみたいに写真と向き合いたいと思った。
人生は自己実験だ。そうすれば、怖いものなどなくなるだろう。
私は台風だ。同じところでクルクルと回っている。この小さなうねりが巨大なハリケーンになるように、刺激を与え続けよう。
ハリケーンに意識があるとしたら、苦しいのかな、楽しいのかなと思って、また、クルクルしていた。
恋愛と写真についての考察
2019年4月20日
人を好きになる要素について先日書いたが、そんなものナンセンスだ。
好きになるときには好きになるし、それがその”どの部分か”については言い表せないその要素こそが”好きになること”であると思う。
スーザンソンタグ「写真論」を読んで。写真は感傷的なものである。世界の断片で、写真を通じてもう一つの世界と繋がる、世界の再構築である。
私が写真を好きなのは、自分の好きなように世界を構築出来るところに囚われているからかもしれない。写真は視野を狭め、世界を狭くする。写真なんかやめようと思っても、結局は写真に傾倒するばかりだ。
じゃあ、一体何がしたいのだろうか。
先日、食事をした男性とその後数回会ったが、しれば知るほど私の視野を狭め、世界を狭くする。
これは一体なんなのだろうか。アインシュタインも恋をしたのだろうか。だとしたら、どのようにこの”現象”を感じていたのだろうか?
恋というものを科学的に解くとどのような現象なのだろうか?
私はその男性を批判したいわけではない。この、理解不能な気持ちの変化を知りたいのである。それに対する対処法を知りたいのである。
写真とは何だろうか。何が映るのだろうか。何を見ているのだろうか。何を写したいのだろうか。何を訴えているのだろうか。
その男性はとてもストイックだ。多分今も、ひたすらに勉強をしているのだろう。そしてそれが彼の幸福であり、ストレス発散である、と思い至ってから言葉が止まらなくなった。
恋愛とは、一人の人間の中で起きる葛藤だ。ふたり、ではない。
私は自分を観察する。この悲しみがどこからきて、どこへ繋がるのか。そこから何が生まれるのか。何かを生み出せなかったら馬鹿だ。
気がついたら、傾倒していた。狭まった視野を広げて、世界を広げるのだ。そして、大きなうねりに深く潜っていける鍵を手に入れたのだ。
だから、ドアを開けまくらないといけない。
そのどれかに、彼がいたらいいなと思う。