これで楽しくなった
2019年4月23日
好きの要素について。
いつまでも残る声や、笑った口元がフラッシュバックしていけない。
過日、すごく落ち込んで自分とは何者であるのかと考えていた。
私はよく人をゾンビと揶揄するが、一体それになんの意味があるのか。あ、待てよ、ゾンビとは私のことではないか!!!と思ったのである。
そうして、よく考えてみると自分がゾンビである状態はとても自然で力が抜けていて、良いことだと思った。
どうして今まで自分は、自分だけは人間だと思っていたのか。その方がよほど不思議で、おかしなことのように思った。
だから、私はゾンビ。やっと自分というものを受け入れられた気がする。すごく楽になった。そして、ゾンビとかゾンビじゃないとかどうでもよくなった。
そんなに時間はないのだ。
数年まえにもスーザンソンタグ「写真論」を読んでいるはずなのに、何一つ覚えていないし、何も感じなかった。意味すら分かっていなかったんだと気がついた。
写真、写真、写真、写真…
表面的だった。今読んでみて、書いてあることがやっと分かってきた。
これは、「愛」による作用が大きいと思う。愛といっても、好きな男のことではない。
家族愛、友情、博愛… 人への興味と自分への興味だろう。愛には二種類あると読んだことがある。進行しながら感じる愛と、別れてから気づく愛。
私は絶対的に後者で、この作用は私の中に大きなトンネルを通したのだ。そして、自己を見つめる中で梯子をかけることに成功したのだ。
「私はロランス」という映画を見て、あのピンク色に塗ったブロックこそが愛だと悟った。そして、愛とは二人で作るものではなく、一人の人間の強さだと思った。
これも過日、愛とは「好き」という状態とは違う、と思った。好きは一方的だ。無遠慮だ。
愛とは私にとって一生わからないものだと思っていた。しかし、今、私は愛によって深く世界を理解することができてきている。