恋愛と写真についての考察
2019年4月20日
人を好きになる要素について先日書いたが、そんなものナンセンスだ。
好きになるときには好きになるし、それがその”どの部分か”については言い表せないその要素こそが”好きになること”であると思う。
スーザンソンタグ「写真論」を読んで。写真は感傷的なものである。世界の断片で、写真を通じてもう一つの世界と繋がる、世界の再構築である。
私が写真を好きなのは、自分の好きなように世界を構築出来るところに囚われているからかもしれない。写真は視野を狭め、世界を狭くする。写真なんかやめようと思っても、結局は写真に傾倒するばかりだ。
じゃあ、一体何がしたいのだろうか。
先日、食事をした男性とその後数回会ったが、しれば知るほど私の視野を狭め、世界を狭くする。
これは一体なんなのだろうか。アインシュタインも恋をしたのだろうか。だとしたら、どのようにこの”現象”を感じていたのだろうか?
恋というものを科学的に解くとどのような現象なのだろうか?
私はその男性を批判したいわけではない。この、理解不能な気持ちの変化を知りたいのである。それに対する対処法を知りたいのである。
写真とは何だろうか。何が映るのだろうか。何を見ているのだろうか。何を写したいのだろうか。何を訴えているのだろうか。
その男性はとてもストイックだ。多分今も、ひたすらに勉強をしているのだろう。そしてそれが彼の幸福であり、ストレス発散である、と思い至ってから言葉が止まらなくなった。
恋愛とは、一人の人間の中で起きる葛藤だ。ふたり、ではない。
私は自分を観察する。この悲しみがどこからきて、どこへ繋がるのか。そこから何が生まれるのか。何かを生み出せなかったら馬鹿だ。
気がついたら、傾倒していた。狭まった視野を広げて、世界を広げるのだ。そして、大きなうねりに深く潜っていける鍵を手に入れたのだ。
だから、ドアを開けまくらないといけない。
そのどれかに、彼がいたらいいなと思う。