empty
2019年2月16日
何にもする気が起きなくて、布団から出れないとき、あなたを起きあがらせるものは何ですか?
「何かを待っている」感じというのがずっとあって、特に布団からでれないような時、ずっと何かを待ってる感じで、一体何を待っているんだろうと数年前から強く思っていた。一昨年あたりおみくじを引いたら「待ち人来たる」と書かれていたので、やっとこの待っている何かが来るかもしれない、と心踊ったものだ。
しかし、いまだに待ち人は現れないのである。
ここで引っかかるのは、待っているものは「人」だと私は感じていることだ。
ここ最近、やっとこの「待っている状態」というものの正体が何か分かってきた。
まだ仮説段階だが、「退屈」というものではないか。
今、調べに行って見たところ高確率で「退屈」だとわかった。
Wikipedia退屈についての締めの一文
”退屈について問うことは、みずからについて問うことである。”
全部が繋がったように思う。退屈を晴らしてしまうか、受け入れるか。私は圧倒的に前者である。だからなのだ。だから。
自分を奮い立たせる刺激とは、他者である。だから待っていたのだ。
他者の言葉を聞き、それに返事をする。これをコミュニケーションと呼びたい。
特に自分の生を感じるのは、同時代・同じ時間を生きている人の感性や言葉・思考を垣間見た時だ。その時、頭の中のハンドスピナーがぐんぐんと回り出すのだ。
過去の人たちから残された置き手紙(文学や絵画・創作物すべて)を見れば、そこへ返信したくなる。それが、創作することではないか。
または、未来へ向けて置き手紙をすることだ。
自分が空っぽになった時、何かを待ち、どうしていいのかわからなくてオカルトについて調べる。それが私の現実逃避の方法である。
朝起きた時、どこにいるのかわからなくなる時がある。頭の中に何もなくて、どうしようかと思う。今朝もそうだった。
並行して読んでいる本(単純に読みきれなくてすべて読みかけなのだ)の中で今読めそうなものを選んで読んでいたら寝ていた。起きて頭の中にぼんやり言葉が浮かび上がってきたので、読み取って、それを組み立ててみる。それが私の思考らしきものだ。
それよりも、ツイッターで見た誰かの一言が、一瞬で布団を蹴り上げ腕をふりまわしながらキッチンへ駆け抜ける力をくれる。
「待ち人」の正体がわかったところで、今度は待ち人を探しに行って見たいと思う。
2019年宇宙の旅
2019年2月8日
前回、読んだ本や見た映画が血肉になってないと書いたが、改めて考えてみれば別に血肉にしたくて見ていたわけではないし、ただただ自分を癒すために見ていたのだからそれでいいのかなと思った。その中で強い共感を持ったものは、非言語の感覚になっているかもしれない。
みるというよりは、その世界観の濃霧の中を歩いてきた、に近いかもしれない。
しかし、論理的思考の概念を知った今、それを紐解いていくことの重要性を実感したのだ。そしてそれは、もっと世界の成り立ちを知ることができる。それはモノリスなのかもしれない。やっと、人間に近づく第1の鍵を手に入れたみたいだ。
「ナナメの夕暮れ」若林正恭著 という本に出会った。
感覚が似ているなと思った。普通に馴染めなくて、自分がわからなくて、深夜徘徊が好きで、人に興味があって。
頭の中の霧が全部言葉に変換されていくみたいで、真面目に震えながら読んだ。
この人も、言葉の魔術師だなと思う。人は多面体だということを、ちゃんと理解できた。
その後、Amazonでその他著書と関連雑誌を買い求めたことは言うまでもないだろう。
「表参道のセレブ犬とカンパーニャ要塞の野良犬」資本主義から逃げてキューバへ行く話。それだけじゃないけど。
若林氏のエッセイを説明するのは、ロストイントランスレーションだな。直訳することで失われる言葉。
その空気感を持った言葉が、秘密の扉を開けた人だけに素晴らしい景色を見せてくれる。(そして彼に共感するのは、美しい景色だけが素晴らしいのではなく、曇天も、汚い街も、すべて等価に素晴らしいと感じているところではないか)
著書を読み進めて、初めは似ている人間だと思ったけどそうじゃないなと。とてもロジカルに考える人だし、人に伝えるということを常に考えている。
世界を自分なりに解きほぐそうとし、それを進化させて論にしていく。そして、面白い。(ここ重要)
ここから派生して、世界観が変わるわけだが。それはそのうち書いてみたい。
同時代性ということをとても嬉しく思う。いつからか、面白いこと、おもしろい人に出会うことはないだろうと思っていたけど、やはり、無知とは愚かなり。
実験1
2019年2月2日
どれだけの時間がたっただろう。
久しぶりにクソみたいだなと思った。
真人間になろうと頑張って恫喝に耐えて頑張ってきたけれどきずいてしまったよう。
朝方、それはやってくる。
寝ているようで頭だけが起きて、思考が回っていく。
一日の中で一番集中している時間。無意識の底から湧き出てくる、一番真実味を持った考え達。
最近思うことがある。先日、「あなたは読書が好きみたいだけど、言葉も下手だし文章も描くの遅いし、何もできないね」
と私にとっては日常になリつつある指摘があり、まあ確かに、と思い、なぜだろうと考えてみた。
まず、読書は好きだ。物語の世界に入り込んでつまらない現実を忘れられるからだ。そして、その物語に入り主人公を生きて
成長したり挫折したり死んだり、疑似体験をして癒されるからだ。箱庭療法だ。
しかし、すぐにストーリーを忘れてしまう。断片的に何と無く覚えているけど、だいたい忘れている。癒されることが目的みたいだ。
そして、物語を楽しんで終わりだ。
これは私の好きなことに対する姿勢全てに言える。
今までにみた映画、読んだ本、音楽、全て無駄になったと思った。
何も学んでいないし、私の血肉にはなっていないのだ。
分析・思考。言葉。頭が痛くなるけれど、立ち向かわなければ未来は無いだろうと切に思うのだ。
そして、これがいつも私を苦しめる劣等感、底辺にすら届かないという焦燥の一要因だろう。
思考をしよう!と意気込んで、えーとっと考えだすと、色んな景色と色と音とが渦巻いていて、気づくと冷蔵庫のホウレン草はどうやって食べようかな、とか考えてしまう。
皆どうやって思考しているのだろうか。思考の形をみてみたいと思い、電車の中、街中で人を眺めてみても一向にわからない。
頭の中にホワイトボードでもあるのか。ノートみたいに書き出すのか。言葉が映像として飛んでいるのか。
今思いついたのは、思考には2パターンあるな。
まずは、興味がある事に対して意識せずとも水面下でぼんやり考えていて、ふとした折に大きな文字が降ってきてそれを土台に粘土を捏ね繰り回すように言葉にしていく思考。
もう一つは、全然興味なくて、カオスの中を漂い、やっとの事で藁をつかんでみたものの、掴みすぎて粉々になって、返答に困る、というやつだな。
言葉について。私は言葉の対極にあるだろう「写真」を愛している。その面白さは、自分の意識を超えて、思ってもみなかったことに命が吹き込まれるところだ。自分の写真だけど、コントロール不能になった写真を撮れた時、生きててもいいんじゃないか、と思うのだ。
そして容器としての自分を意識する。自分ほどにつまらない人間が自己を消した時、人間本来の無意識の底の原風景が浮かび上がるのではないか。
それと同じくらい言葉も愛している。素晴らしく美しい響きを持った言葉達は、素晴らしい写真を見た時と同じくらい幸福にしてくれる。
最近読んだ本では「言葉の錬金術」(「リスボンへの夜行列車」より)を始め、崇高で美しくて悶えてしまうような言葉が連なっていて、ぼーとした。現実には、意味のある言葉が溢れかえっているが美しい言葉はあまり見かけない。
また、昨年、隕石が落ちたような衝撃を受けた言葉を紹介したい。
「羨望」・・・羨望とは他人の幸福を許せない怒りだ。(ラ・ロフシュコー)
今まで苦しめられてきた得体の知れないもの、は、羨望だったんだ。だったんだーーー!(エコーかかる)
まじだせえな、と思った。得体の知れない感情に言葉がつき、その日1日ブツブツ呟いてはニヤニヤしていたと思う。的確すぎる。
そうして、どうして羨望を感じるかといえば、自分に自信がない、自分に自分で制限をしている、やりたいことから逃げている、人の真似をしていれば安全だから、という思考から自分を見失っている。というより、自分が無いから。という考えに至った。
自分は他人とは幸福を感じるポイントが違うということに気づいた。だから、自分が幸福だと感じることを恐れずにやっていかないと。
現在に至る。時間を金に変えて生きている。恫喝なのか、教育なのか分からない日々で生きている。無意識が、恫喝なんじゃないかと訴えている。
考えないようにしているその裏で、心が死んでいく。
ずっと悩んでいた。今も悩んでいる。ブログに意味はあるのか。自分の考えを公開する意味は。
自分の名前を検索してみたら、同姓同名がたくさんいた。仰々しく考えなくても、世界は回るし、私は一日本人でしか無いのだ、緊張するな。
ブログの意味はコニュニケーションしたいから。投げて終わりにしたく無い。独りよがりで終わりたく無い。
そんなことできるのだろうか。そのコミュニケーションの果ては何だろう。
わからないから、実験してみることにした。